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『声』

                   いわさ れん


昨日の夕方、冷たい雨が降るT 字路の片隅に黒い子猫の死体を見た。
あの子は、ご近所の庭を根城に住み着ていた、1匹の野良猫の子供だった。

あれは1ヶ月ほど前。ミケ・白黒の斑、そして真っ黒い3匹の子猫が、母と思われるキジ猫の後ろについて姿を現すようになった。
僕の住むマンションは、高さ1.5メートル程のコンクリート塀でぐるりと周りを囲んである。
成猫ならばその高さなど、何の障害にもなら無いのだけれど、何処から入り込んだのか、子猫がその塀の内側に迷い込んででられなくなっていた。
母猫は子を探していて『にゃおーん』と少しもどかしそうな困った声でくり返し鳴いた。すると 『みゃーみゃー』と必死に鳴きながら母の呼びかけに答える子の声が聞こえる。
けれど、マンションの高い壁に声が反響して、子猫の鳴き声が何処から発せられているのか、ハッキリしない。
直に、1階の狭い中庭の茂みがガサガサと動き、1匹の子猫が姿を現す。
「あ、迷っていたのはミケだな」
3階からその様子を眺めていた僕は、その姿が見え、出来ることなら母猫に『お前の子供は、壁の向こうだよ!』と、教えたいのをじっとこらえた。
なぜかって?
人間の言葉が通じないって言うのはもちろんだけど。何より、ここで声を出して騒いだら、2匹とも人間に警戒して、互いを捜すどころじゃなくなるだろう?

互いの間にはコンクリートの壁が割って入っていて、子猫はこの壁を越えることは出来ない。母猫がその向こうにいる子猫の存在を確認できない限り、この親子は再会できないのだ。子も必死なら、母猫もウロウロと鳴きながら、声の出所を探す。
その間、4〜5分のことだった。
子猫は必死に鳴いて母にアピールする。するとどうだ。
見事!母猫はひょいと塀に登って辺りを見回すと、すぐに子猫を発見したのだ。
「さすが親子。やるね!」
互いを呼び合う声が、喜びに満ちていたように聞こえる。
そして僕は、この2匹が無事出会えたことの嬉しさと同時に、この母子の絆の強さに安堵した。

日差しの酷く照りつける日には、一軒家だった向かいの軒下で、母猫はゴロンと横になり、3匹の子猫はその周りを囲んで寄り集まっているのを見かけた。白黒のまだらな子猫は、まだ母猫のオッパイを飲んでいる。他の子猫はせっつく様子もない。
〈あいつが1番甘えん坊か〉
なんとも微笑ましい光景ではないか。
僕はそんな子猫達のかわいらしい仕草が好きで、この親子の鳴き声が聞こえると、時折3階のベランダから様子を眺めていた。
ある日、暇そうにみんなが寝ていたのを見た。ちょっとしたいたずら心に駆られて、ベランダからネコの鳴き真似をしてみる。
すると、さっと8個のビー玉がこちらを見上げた。僕とそのネコたちの間には、かなりの高さと距離がある。
母猫はそれを知ってか、さほど緊張もしていないようで、暫くこちらの様子をうかがうと、振り向いていた首を元の位置に戻し再び寝たフリをする。しかし、3匹の子猫はじっとこちらを見て動かなかった。
中でも黒い子猫は真正面から僕を見ていて、真っ黒なシルエットに金色の瞳がやけに目立っていた。そんな訳で当然僕の中では、その子がどの子猫よりも印象に残ってしまう。
それから数日、僕とネコ達の不毛なやり取りは、何度か続いた。

1週間ほど前のこと。
とっぷりと日も暮れた頃、帰宅した僕とあの黒い子猫が、なんとマンション裏にある駐輪場の軒で出くわした。
当然、互いの目線は合い、固まった。
コンクリートの塀が胸の高さ程の位置にある。そこに黒い子猫は立ち止まり、こっちを向いている。互いが1メートルも離れてはいない。こんなに接近したのは初めてだった。
僕はなんだか嬉しかったのだけれど、向こうはそれどころじゃない。ネコにしてみれば全く迷惑な話だ。

「大丈夫、何もしないよ……」
そう、声をかけた。もちろん、ちゃんと人の言葉で……だ。
それでも子猫は警戒する。当然だ。まだ生まれて何カ月も経っていないだろうに、一著前に人間を敵だと認識するこの子猫は、よく母猫に仕込まれているのだと思った。
そうでなきゃいけない。君は……野良猫なんだから。

ふと右奥で、気配を感じ目線を移す。そこには出遅れたその子を心配し、母猫と他の2匹の子猫が後ろを振り返り、じっと止まったままこっちを見ていた。

──あんたっ、うちの子にちょっかいだしたら、承知しないわよ!──

母猫の『無言の声』が聞こえる。
〈なんだかイタイよ、その視線……まいったな〉
僕は苦笑いをした。
母猫の後ろにいた残りの子猫たちは、危機を感じたのか、さっさと奥の方に消えていった。
でも母猫は、その取り残された黒い子猫の様子と、僕の動きをじっと観察している。
突然、母猫は『ニャァッ』とひと声鳴いた。
瞬間、さっきまで微動だにせず僕をにらみつけていた黒い子猫は、さっさと塀から向こうの敷地に降りてしまった。
「あーぁ。もう僕も、消えるところだったのになぁ」
なるほど。逃げるチャンスをずっとうかがっていたんだ。可哀想な事したな。
母猫とは反対側に下りて、1人取り残された子猫に後ろ髪を引かれながらも、僕は部屋に戻るため、すぐ脇にある螺旋階段を上がりはじめた。すると母猫を先頭に3匹の猫は、見え隠れする僕を横目で見ながら、そろりそろりと塀の向こうにいる我が子の元へ移動をはじめた。
へぇ。偉いもんだね、この親子の信頼関係は。

それから暫くの間、僕は彼らを1度も見ることがなかった。
どうやら子猫たちは高い塀を簡単に越えられる程に成長し、行動範囲が広がっていろんな処にいけるようになったようだ。
そっか……よかったね。


そして昨日。
黒い子猫にとって、運命の日がやってきた。

日本列島の南に大きな低気圧が接近し、前の晩から雨は本格的に降っていた。
風もそこそこあって、傘を斜めにしないとずぶぬれになってしまう。
さすがに自転車通勤は無理だった。
駅から5分の道のりを、より早足で帰っていた。マンションまで、あと数十メートル。
「何だ?この匂い……」
すぐ側のT字路にさしかかる5メートルくらい前だっただろうか。急に強い異臭が鼻孔の奥をついた。
雨の降る日に良く感じる、カエルが潰れた時の、生臭いあの匂いだった。それが何故、変だと思ったかと言えば、これまで何度も雨の降ったその道を歩いたけれど、1度もこれほどまでに強く感じたことはなかったからだ。
イヤな予感がした。
僕はずぶぬれになった足元からじわりと目線をあげて、辺りを見回した。

間もなく。

……ぺしゃんこになった黒の中に混じり、鮮やかに浮かび上がる薄いピンク色の『塊』が、モノクロの視界に飛び込んできた。

僕はそれが何であるか、認識するまでにさほど時間はかからなかった。
ここで何が起きたのか横たわる物体から想像して、スッと全身から血の気が引いたのを感じた。
僕は慌てて早足になる。
〈そうだ。見なかったことにすればいい……〉
僕は思わず目をつぶった。

だけど、どうしてもあの鮮やかなピンク色が、頭の中から離れてはくれない。

深夜になり、あんなに降っていた雨はすっかりやんだ。
肌寒くなった闇の向こうからは、静かな秋の虫の声が聞こえる。
その音に紛れるようにして、我が子を呼ぶあの母猫の哀しい声が、何度も、何度も僕の耳にこだました。

「もう、いないんだよ……」


僕は哀しくて、そして、苦しかった。
あれほど衝撃的なシーンに出くわした後では、さすがの僕も永遠の別れを自覚するしかない。
変だね。君には初めから嫌われていたはずなのに。
君とは、もう偶然でも会えないのだと思うと、胸が痛くなって、やりきれない気持ちになってくる。
何故だろう。何故、こんなにも僕は君のことが気になるのだろう。
君は猫。
僕は人間。
君は僕の仲間でもなければ、所有物だったわけでもない。それにお互い、似てもにつかない別のもの。
それなのに。
なぜに、こんなにも哀しいのか。
少し……ヘンだな。


人間はね。可愛い君達を見つけると、一見優しそうに笑うだろう?だけど、時にはとても冷たくなる生き物なんだ。
あんなに可愛かった君が、変わり果てた姿のまま、濡れたアスファルトの上で何時間も冷たい雨にさらされされていることを知っていても、誰も近寄りはしない。
でもね。それだって仕方がない。
君はもう変わってしまったんだ。愛護される要素を、君は1度に失ってしまったんだから。
もちろん、誰だってそう言う思いを抱くことに、多少に関わらず、罪悪感を持つだろう。
けれど、それだけなんだ。結局、自分を守るためには、他の何かを犠牲にしてしまっても仕方がないと、どこかで矛盾する感情に折り合いをつけている。
そういう生き物なんだ。
人の忌むべき部分を少しずつ心の隅に閉じこめていかないと、いつか僕らは呵責に追いつめられ、いずれ生きていけなくなる。
本当は弱い生き物なんだよ。
弱いから、それを認めないよう、目をふさいで生きていく。やっぱり身勝手な話だね。

おそらく君も、本当はこれから世の中をもっと知るはずだった。
危険なのは人間だけじゃない。
車や野犬、カラスだってそうだ。
親離れという成長と引き替えに、飢えや乾きだって経験する。

そうさ。これは仕方のないことだったんだ。
君は……“野良猫”として生まれたんだから。

分かっている。僕だって同じ、酷い生き物なんだ。
雨に濡れた君が、やがてカラスにつつかれるか、ゴミのように捨てられていくのを分かっていて、僕はあのT字路に置き去りにしたんだからね……。
あの時、君は何か言ったかな。でも、僕は耳を塞いで逃げたんだ。

まだ母猫は、君のことを呼んで“泣いている”よ。
でも、もうあの母猫は、君には会えない……。


18年前のあの日、母さんは僕を連れて見知らぬ公園に行き、かくれんぼを始めた。
やっと10まで数えられるようになった僕を大きな樹の幹に向かわせ、母さんは『隠れる役』だった。
あの時母さんは指切りしながら、何度も言ったよね。

「探すのは“もういいよ”って聞こえてからよ」

母さん……、あのね。
『もういいかい?』って言いながら、僕、本当はあの時、振り返って顔を覆った指の隙間から、だんだん小さくなっていく母さんの後ろ姿を見ていたんだ。
そんな僕に気が付くどころか、母さんは1度も振り返る事なく、そのまま暮色の中に消えていったよね。

それでも僕は問い続けた。
『もういいかい?』って何度も何度も繰り返した。

夕陽のオレンジを吸い込んだ空は次第に色を失い、独りになった公園は、思いのほか暗さを増していく。

「もういいかい」

発した言葉が、焦る心のなかで何度もこだまする。

「もういい……かいっ」

こみ上げてくる不安定な感情を振り切るように、僕はただ、同じ言葉を搾り出す。

行き場を失い、それでも膨れ上がる涙と、限りなく深さを増し侵食していく空の闇に、声も心も押しつぶされそうになる。
「もう、いい……かいっ」
僕は欲しかった答えを、ずっと母さんの声を待っていた……けれど。

いつまでたっても返事は返ってこない。
そして。

しばらくして、ようやく気がついた。

……ああ、そうか。

母さんは僕を『捨てた』んだ……。


たまらず視線を上げたその先に見えたのは、深い群青の空の、夕陽の残像に向かってゆっくりと流れていく一片の薄雲だった。
雲の流れに沿うように聞こえてくる風の、そのわずかな音にも神経を研ぎ澄まし、雲の行く先を見失わないよう、必死に目で追いかける。

そうだ。

僕はちゃんと理解していた。
もう時間は戻ってこないってことも。
瞬きを我慢し、やっととどまっていた涙が、頬にすっと落ちていくのを感じた。

辺りはすっかり暗さを増して、人気のなくなった公園は不気味なほど静かだった。
それでもまだ、僕は空を見上げていた。
その場所から一歩も動くことができなかった。 これ以上、何かを失うことが、ただ、ただ……怖かったんだ。

あのね、母さん。
最後に聞いた、あなたの残した『まあーだだよ』の声が、今でも耳から離れない……。


あれから僕は大人になり、いろんな事を知った。
10しか数えられなかった数には、千も万も、そして那由他や不可思議、無量大数があることも知っている。
だけどそんな限りない数字、僕ら人間はとても数えられるものじゃない。
僕らオトナは少なからず、そういうどうしようもない事実を、目を閉じ耳を塞いででも受け入れ、生きていく。
それにね。
もう涙の後始末の方法、どうすればいいのかってことも、なんとなくだけどわかってきたんだ。

だから、ゴメン。

これ以上、僕は母さんとの約束を守れそうにない……


ねぇ、母さん?

僕の声、今でも貴女に届いていますか?

そして最後に『もういいかい?』って言ったら、今度こそ『もういいよ』って、答えてくれますか。


あの、母猫のように……。



                        了