Copyright © 2003-2010 sousakuhonpo-renya. All Rights Reserved.                           

◇注意◇ このページは、りんごのうさぎの続きです。



『りんごのうさぎ』続き

                      いわさ  れん


夜も深くなり、客足も途絶えたので、縁者に少しでも横になるように進められた涼代と美奈子は、久しぶりに枕を並べて休むことになった。涼代の部屋は、明日の葬儀の準備で使っており、比較的広かった絹江の部屋に二人は床を敷いた。
美奈子は小さな頃、母に叱られた夜など、良くこの部屋で祖母の布団に潜り込み、一緒に眠ったものだ。
思い出したように美奈子が口を開く。
「……りんごのうさぎかぁ。そういえば母さんって昔、お弁当作ると必ずりんごのうさぎ入れたわよね。あれ、やっぱりおばあちゃんの影響?」
「そうね。少なからず、と言うところかしら。あの時のことが、ずっと記憶に染みついたのね」
涼代は笑って答えた。
「母さんが小学校時分はね、みんな今ほど可愛いお弁当じゃなかったのよ。だけど、おばあちゃんは昔からハイカラな人だったのね。おばあちゃんの作るお弁当にはいつも赤い耳がピンと張った、かわいいりんごが入っていてね。それが嬉しくて、学校でもチョット自慢だったの。ふと思い出してそんな話をしていたら『それなら昔を思い出して作ってみようかしら』なんて言いだして。そしたらねぇ……」
涼代は、言葉の間を置くと、大きくため息をついた。
「くし切りにしたまではいいんだけれど、そこからおばあちゃんの手が止まっちゃったのよ……」
「え?そうなの?」
薄暗い天井を仰ぐようにしていた美奈子は、涼代の方に目線を移す。
「そう。『……あら、どうやってこしらえたんだったかしらねぇ。困ったわ』って、そう言って笑ったの。その時に初めて『あぁ、やはり年を取ったんだなぁ』って、実感したわ。あんなに想い出があったのにね。老いるって、こう言うことなんだなぁ、って……」
「そう……。まぁ、おばあちゃんだっていい年よ。少しくらい物忘れしたって仕方のない事、っていうかさ」
『そうね。でも……』と、涼代は呟く。
「おばあちゃんあの時、顔は笑っていたけれど、本当は泣きたかったんじゃないかって。今はそう思えるの。あんなに印象の深いことまで、忘れてしまってしまうんだもの。老いて、記憶がだんだん不確かになるのを自覚するとね。大切にしていたものが、一つずつ手元からこぼれ落ちていくようで、とっても不安になるのね。でも、それを止めておく自信も持てなくなって……それがどんなに哀しい現実かといったら……」
「張り合い無くしちゃうわね、おばあちゃん」
「えぇ……でもこればかりは、どうにもしてあげられなくて。それから何日かしてだったわ。急に倒れたのは」
涼代の目に、初めて涙が零れた。
「おばあちゃん、口にこそしなかったけれど、本当は、まだまだ一緒にいたかっただろうって思うの。でも、望まなくても時間はキッチリと過ぎていくから。それが残酷にも感じるわね」
「そっか……。今までそんなこと、考えたことも無かったな」
「あなたはまだ若いから。当たり前よ」
涼代は娘の顔を見ると、目を潤ませたまま微笑んだ。
「きっともう時効だろうし。話しておこうかな、美奈子にも」
「え?なぁに、母さん。もったいぶっちゃって」
「実はね。おばあちゃん、ずっと秘密にしていたことがあったのよ……」
涼代は、むっくりと起きあがり、部屋の明かりを付けた。その足で絹江が後生大事にしていた、けやきの茶箪笥の引き出しを開けて、何かを取り出した。
「ほらこれ。みてごらん。明日、おばあちゃんに持たせるものを見繕うつもりで、あちこち整理していたの。そしたらその茶箪笥の引き出しから、こんな物が出てきたのよ」
涼代が差し出したのは、飴色に濃く変色した、小さな油紙の包みだった。
「何?これ。随分念入りにくるんであるのね……」
そう言いながらパリパリと音をたて、今にも崩れそうな古い油紙をそっと剥がすように開いた。
中には、表紙が赤茶けて、見るからに年季の入った、手のひらほどの大きさの冊子が入っていた。そこに書かれた文字を読んでみる。
「あー。これ、昔の母子手帳じゃない!昭和二十三年?待って、母さん、これって……」
美奈子は壊れ物を触るように、その古ぼけた表紙を丁寧にめくった。
父親の欄が空白にされた出生記録のページには、絹江の旧姓が書かれており、それは確かに昭和二十三年九月十四日付けで、女児を出産したことが記されていた。
美奈子は、裏表紙の間に一枚のモノクロ写真が挟まれているのを見つけた。
何度も手に取ったのだろうか、写真の四隅はまるく、削れたように朽ちていた。そこには大きなカウチにちょこんと座った、おかっぱ頭の女の子が写っている。裏には小さな文字で、撮影日と名前が書かれていた。
それを知った美奈子はあることに気がつき、大いに慌てた。
「チョ、チョット待ってよ、昭和二十四年九月、一歳の記念に……って。これ母さんの生まれた月と同じ……それにここに書いてある名前、涼代って……じゃぁ、まさか!」
「分かる?そう言うことなのよ」
「そんな……ねぇ、どうしておばあちゃん、こんな大事なことずっと黙っていたのっ!」
驚きのあまり口調を強める美奈子とは裏腹に、まるで涼代は他人事のように平静を保っている。
「思い当たるのがね、おばあちゃんがこの家に来た頃、子供ながらに変だと思ったことがあったの。おじいちゃんね、初め、おばあちゃんのこと『千代菊』って呼んだことが何度かあって……」
「それって……芸妓さんみたいじゃない」
「多分ね……。前の母は体の弱い人だったと聞いているわ。おそらく子宝にも恵まれなかったんでしょう。つまり、外で産まれた子を、実子として戸籍に入れたんじゃないかって。それに、初めてあったとき母さんにこう言ったの。『お父さんに、ずっと良くしてもらっていたのよ。宜しくね、涼代ちゃん……』って。初めから何もうち明けないつもりだったのね。ほら……昔のことだから。他の目もあるし、何も言えなかったんじゃないかな」
「でも、なんか……なんか、そういうのって……」
美奈子はそう言いかけて、うつむいてしまった。


結局、二人とも眠れずに夜は明けた。
無事に本葬を終え、絹江は過去の真実を一言も証さぬまま、荼毘に付された。
ここ数日の慌ただしさの中では、涼代も我が身の事など、じっくり考える余裕はなかった。
最後の弔問客を見送った今、喪主を務めていた涼代は、ようやくひとときの慰めを得た。この先に行う四十九日の法要までは、しばらくの時間がある。
さすがに緊張の糸が切れたのだろうと、美奈子は実感した。日頃気丈な分だけ、これほどにぼんやりとした母の姿を目の当たりにすると、やはり心配にもなってくる。美奈子は母の顔をそっと覗き込んで言った。
「……母さん、少し休んだ方がいいよ」
ふと思い出したように、涼代は一瞬娘を見て『ありがとう』と笑った。
石畳を取り巻く景色は、時が止まったかのように静寂を装っている。
そこを時折吹く風だけが、今年芽吹き、高く丈を伸ばした若木を揺らし、ザワザワと音をたてて、二人の間を通り抜けていった。美奈子は風に流され舞い上がる髪を、指でかき分けながら言った。
「ここは相変わらず、気持ちいい風が吹くのね。あーぁ。それにしても、今年の夏も暑くなるのかなぁ……」
「……そうね、きっと暑くなるわ」
万物に定められた、いつでも変る事のない、自然な営みの循環。どんなものにも、常に同じ歩調で時は刻み、風は動きを止めることなく、四季を通り抜けていく。
しかし、上空の気流にのった茜の雲が、いつも同じ形をとどめないように、人もまた、時が流れることでその姿を変えていくのも事実である。
涼代の母は亡くなった。一生の中で、生は死と一対となり、必ずその終わりを告げる。それは少なからず残された者の心に、何かしらの思いをかきたてる。どんなに固く結ばれた絆も、否応なくその結び目を解き放つ。無情な別れや悲しみ、そして落胆の中、進む方向を見失うのも一つの生ならば、そこで新たに何かを得て、これからを生きていくのも、また一つの生。それが、新たに終焉を迎えたとしても、解かれた絆の片側には、気づかずともかならずや、新たに結ばれた絆が存在している。
生々流転。−ショウジョウルテン−
そうした当たり前のように繰り返される、それら全ての成り立ちが、普遍的に存在していける生き物の、より自然な姿だといえるのだろう。
「ねぇ、母さん?」
「なぁに?」
「おばあちゃんにとっては、りんごのうさぎ、お守りみたいなものだったんだね」
「お守り、か……そうね。そうかも知れない。あのりんごのおかげで、私たちの絆は深くなっていったんだものね。……でも、いつかは私も、作れなくなる時が来るのかしらね……」
そう言い、涼代は苦笑いをする。
「やだぁ、母さん?しっかりしてよね。今から何いってるのよ。まだ倒れられちゃ、適わないからねぇ」
美奈子は母の肩をギュッと掴むようにして、涼代の気を引いた。
「あら、心配してくれるのね」
涼代はクスクスと笑うと、吸い込まれそうになるほど見つめていた茜の空から、やっと目線を降ろした。
「私が困るっていっているのよ。まだまだこれからも、お世話になるつもりなんだから。ふふっ!」
「まったく、しょうがないわねぇ。早くお嫁に行ってもらわなきゃ。これじゃ、いつまで経ってもおちおち年も取れないわよ」
そう言い、自分の肩をしっかりと握る娘の手を、包み込むように優しく触れた。
「さぁ、そろそろ戻ろうか。葬儀屋さん、待っているんでしょう?」
「あ!そうだった!急ごう、母さん!」

慌てる娘に手を引かれ、涼代は早足になりながら石畳を戻っていった。
真竹のトンネルの向こうで、二人の後ろ姿が消えた頃、景色は徐々に茜色で染まり、空と同化していく。
そして静まり返った辺りには、何処からともなくやってくる風に乗り、カナカナと浸み入るように鳴く、ヒグラシの物悲しい声だけが残されていた。



                       了