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『りんごのうさぎ』

                      いわさ  れん


喪服の足元から伸びた人影は、東の方角へと細くなっていた。
緩やかな富士見坂を下る後ろ姿は、やがて影と共にゆっくりと消えていく。
涼代は今一度、深々とお辞儀をして、最後の弔問客を見送っていた。
彼女の母・宮乃絹江は三日前、心不全でこの世を去った。今日はその葬儀を終えたのである。
涼代は、下り坂になった景色に背に向け数歩足を進める。ふと立ち止まり、頬に感じた風に誘われて顔を上げると、じっとしたまま、次第に色を深くしていく茜の空を漫然と見上げた。

「母さーん!」
青々とした真竹が覆い被さるようにして出来た、長いトンネルを抜ける石畳の向こうから、涼代を呼ぶ声がした。ぱたぱたと気忙しくかけて来たのは、涼代のひとり娘・美奈子である。
果たして美奈子の声は、母に届いていたのだろうか。
返事はなかった。
「ねえ、葬儀屋さんが祭壇の引き取り、そろそろ始めても良いですか?って言っているんだけど……」
二度目の声は、確かに涼代の耳元に届いているはずだった。けれど、彼女はじっと目を細め、竹林のわずかな隙間にある空をいつまでも見上げている。
その様子は、そつなく客の応対をこなしていた、さっきまでの母とは、まるで違って見えたのだ。
美奈子は、門内に立ったままの涼代に近づき、もう一度、そっと声をかけてみる。
「母さん……?」
涼代は静かに眼を閉じ、声を運ぶ風の音を聞いていた。


亡くなった絹江は涼代にとって、二人目の母である。涼代が幼い頃に、もとの母は流行病で命を落としていた。
当時の風潮がそうであったように、父親が家庭の事情に心を砕くことなど期待は出来ない。しかし、幼子には守り手が必要であった。その後しばらくして、宮乃は絹江を後妻として迎え、涼代は再び母親を得たのである。絹江は涼代にとって唯一、幼い自分をたっぷりと甘えさせてくれる存在となり、絹江が亡くなるまでの五十年足らずの間、二人はより密に年を重ねてきた。

昨夜行われた、本通夜の席でのことだった。

読経が終わり、客の焼香が進む中、涼代は一人一人に深々と一礼した。
「わざわざ、ありがとうございました。どうぞ、通夜ぶるまいの支度が整いますまで、こちらで一服して下さい」
辺りには、鼻孔をくすぐるような、独特な護摩と線香の匂いにまじり、その片鱗を掠めるようにして、僅かに心地よい茶の残香が漂っていた。
「あぁ、いい香りだね。どれどれ、今夜は弔いの席だ。昔話でもしながら、遠慮なく頂いていくとしようか」
美奈子の運ぶ、やわらかな湯気を立てる蛍茶碗と茶菓子が、既に焼香を終えた客に振る舞われている。
梅雨が明けたばかりのその日は、昼間から焼け付くほどの暑気を感じていた。その為、安置した仏のことを考え、やや強めに稼動していたエアコンの冷気も相まって、日の落ちた今となっては、少々肌寒さを感じる。そんなこの空間には、温かい茶がちょうどいい案配であった。
祭壇を上座にして、囲むように並べられた白い座布団に向かうと、客は皆膝を折り、おもむろに腰を落ち着けた。
そして美奈子の勧めた茶を、いくつか深めの皺を刻んだ手が取り、間合いを計るようにして啜った。
母に教えられたとおり、客の接待をしずしずとこなしていた美奈子は、顔見知りだったひとりの老爺を見つけると、不意に明るい声を出した。
「あー、そうだ。岸谷の叔父さんは、先にお酒の方が良かったんじゃない?」
岸谷とは、亡くなった絹江とは縁のある人で、そして宮乃……つまり美奈子の祖父の、古い友人でもある。母親が岸谷のことを『叔父さん』と呼ぶので、美奈子もそう呼ぶのが癖になっていた。
宮乃と岸谷は無類の酒好きだった。それが晩年に仇となり、岸谷は身体を壊した。その折、やはり同じ病で先に宮乃を亡くしていた絹江に、何度も優しくたしなめられた過去がある。それを知る美奈子は、いたずらに笑ってそう言ったのだ。
「勘弁しておくれよ。かわいい顔して、美奈ちゃんも人が悪いなぁ。絹江さんの手前、飲めないの、わかっているだろうに」
痛いところをつかれ、出るはずのない汗をじわりと感じる。
「ふふふ!チョット確かめてみたの。でも、これならおばあちゃん、安心して天国にいけそうね」
美奈子はそう言い、ニッコリと笑って見せた。
「いやぁ、参ったなぁ。……絹江さん?あんたの孫はしっかり者だよ。美奈ちゃんのそういうところ、どこか絹江さんに似てくるな」
岸谷はそう言いい故人を見ると、深い皺を刻んだ手は白髪頭をガシガシとかき、やおら苦笑いをした。通夜の最中にもかかわらず、周囲から自然と笑いが起きたのは言うまでもない。
押し寄せた笑いの後、不意に生まれた静けさの中で、ひとりの客がポツリと呟く。
「それにしても絹江さん、本当に安らかに逝かれたのねぇ。いいお顔をしていらっしゃるもの」
「生前から本当に穏やかな人でしたし。幸い亡くなるときも、眠るように逝きました……」
白一色を身にまとい、この世の思いを断ち切るために宛われた短刀を胸にし、静かに眠る母の姿を、涼代はそっと見やって言った。
「絹江さんね、涼ちゃんのことずっと気にしていらしたのよ。良く私にこぼしていたわ。『またひとりにさせてしまうのは可哀想、でも……年には勝てないのね』って」
涼代は、伏せ目気味に笑みを浮かべた。絹江にとっては、もう五十を過ぎた自分のことも、まだ小さな子供でしかないのだと実感する。
「床に伏してからというもの、妙に昔のことを思い出しては、私に話しましてね。実はこれも、亡くなる間際にどうしてもわたしに食べさせるっていうんですよ」
涼代の指が示した、明らかに場違いな可愛らしい形のりんごに、皆の視線は集まった。
枕元に供えられた、赤い皮の部分で長い耳を切り出した『りんごのうさぎ』は、涼代と絹江にとって、欠かせない存在となっていた。
「あれは、亡くなる十日位前だったかしら。母が急に『りんごをちょうだい』って言うんです。私『食べたいのなら口にしやすいようにおろしましょうね』って言いましたら、『作るのよ、りんごのうさぎさん。あなた、好きでしょう?』って。もうりんごを持つ力も無かったんですけれどね……」
苦笑する涼代に、ニコリとした老女は、目尻から溢れた涙を、白いハンカチで静かにぬぐい取った。そして我が子を見るように優しい眼差しで、涼代の顔を見る。
「よほど嬉しいことだったのね。聞いているわよ、絹江さんから。りんごのうさぎのこと」
「ねぇ、なぁに?その話って」
先客の残した蛍茶碗を下げ、台所から戻ってきた美奈子は興味津々で話の輪に入って来た。
「いつ来ても、おばあちゃんの枕元に、そのりんごを置いてあったじゃない?一口も食べるわけじゃないし。実はチョット不思議だったのよね」
「何がって、取り立てて言う程のことでもないんだけど」
「いいじゃない。聞きたいわ。その話」
美奈子は手に持った盆を脇におくと、母の傍にペタンと座った。
「聞かせてあげなさいよ、涼ちゃん。いいじゃない」
絹江と親交の深いこの老女の言葉が、涼代には、まるで母が話すことを了解したようにも聞こえた。
「えぇ、マァ。それじゃぁ……」
照れもあったのだろう。どこかためらいながらも、涼代は懐かしい記憶を語り始めた。

それは、絹江が宮乃の家に入り、涼代がやっと絹江を『お母さん』と呼びはじめた頃のことだった。
快晴のその日、絹江は涼代に一つの提案をした。珍しく休暇で家にいた父と、中庭で一緒にピクニックをしようというものだった。いつも疎遠になりがちだった宮乃と涼代の間を取り持とうとした、絹江のチョットした思いつきである。
重箱に詰められた沢山のごちそうは、絹江が朝から丹誠込めて作ったものである。傍らで次々と出来上がっていく様子を、涼代は喜びに小さな胸をときめかせながらじっと眺めていた。そして、母の手が器用に作り出すあるものに、涼代は目を奪われた。
「ねぇお母さん。そのりんご、うさぎさんでしょう?うわぁ、かわいいねぇ!」
「そう!りんごのうさぎさんよ。気に入ってくれた?これがお父さん。これがお母さん。そしてこのかわいいのが涼ちゃん……」
そう言いかけて、絹江は言葉を止めた。涼代が見上げた母の目には、わずかに涙が浮かんでいた。
「ねぇ、泣いているの?」
涼代は不思議そうに訊ねる。
「……お母さんにはね、涼ちゃんに会うずっと前、生まれてすぐさよならした赤ちゃんがいたの。だからね、ちょっと思い出しちゃった。ごめんね。変よね、泣いちゃいけないわよね……」
涼代はふと思いついた。
「ねぇ、涼代もりんごのうさぎ、作ってみてもいい?」
「えぇ、もちろん良いけど……危ないわよ」
くし切りにしたりんごを、絹江の手からもらい、涼代は見よう見まねで赤い皮の部分にV字に切り目を入れてみる。
「あれ、大きさが違っちゃった」
涼代が持つりんごとナイフに、そっと絹江の手が添えられた。不揃いの赤い耳が、少々厚めに切り出されていく。
「わぁ、出来た!ハイ!お母さんの赤ちゃん!」
涼代は満足そうに笑った。
「あ……」
絹江は、思わず声を漏らす。
「チョットへんてこになっちゃったけど……これでみんなと一緒。四人家族だね」
涼代は重箱に大小三つ並んだうさぎのりんごの横に、ほんのり茶色くなってしまった、少々不格好な耳のうさぎを並べた。
「涼ちゃん……ありがとう」
何気ない涼代の言葉に、絹江は心から嬉しいと感じた。
初めて二人が出会ったとき、何故か絹江はポロポロと涙をこぼし、涼代は抱きしめられた想い出がある。この日あの時と同じように、母は子をその腕にしっかりと抱きしめた。

「結局、そのりんご、もったいなくてすぐには食べられなくてね……」
涼代は笑って、そう話をくくった。


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