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『吉祥果』


                         いわさ  れん


僅かに波打つ空間。
心地よい波音の向こうから聞こえた声に、ふと目が醒めた。
気がつけば優しく温かな何かに『僕』はそっと包まれていた。

「……3ヶ月です。妊娠が確認されました……」
その言葉に、彼女はまるで少女のように明るい笑みを浮かべた。待ちこがれた瞬間だった。彼女の中で、安堵と興奮の色が交差し『僕』に届いていた規則正しい音のリズムは、僅かに速くなっていった。
「……予定日は来年春。4月の初めです。ですが……」
しかし、その状況とは裏腹に、彼女を見た主治医は、少し躊躇いながら言葉を続ける。
「もう一つ、申し上げておかなければならない事があります……」
主治医は執拗に間を置き、明言すべきセリフを出し惜しんだ。
この数年間、彼女は『僕』がやってくるのを、ずっと待っていた。けれど、主治医の口から繰り出される、妙に慎重な言葉の語尾に、彼女は僅かな濁りを感じていた。
歓喜の果てに映し出された彼女の口角の緊張が、そのニュアンスに反応し、徐々に下降していくのがわかる。

そう。彼女の体内には『僕』の他に、悪性の付属器腫瘍までも、誕生させていることが分かった。
主治医の説明はその後、淡々と行われた。

「このまま、妊娠を続けることは出来ます……しかし、あなたはまだ若い。これまでの経過を考えると、このまま妊娠を継続すれば、胎児と共に腫瘍が急成長することも、充分考慮に入れなければならないのです。危険だと言って良いでしょう。でも今、勇気をもって病巣である卵巣の全摘出に踏み切れば、高い確率であなたの命を救うことが出来るのです」
「…………」
彼女の顔は強張ったまま、何か、言葉を発しようとしているのが伺えた。しかし、唇を震わせたまま、声にならないでいる。
その様子に主治医は気づき、すぐさま言葉を付け加える。
「ただ……勿論その場合、今回の妊娠の中断も含め、自力での妊娠は以後も望めないと言うリスクを負う事になりますが……」

周囲も、そして『僕』の父となるべき、彼女の傍らに立つこの人物でさえも、この妊娠を継続することに大反対した。ここには、例え『僕』を堕したところで、彼女を責めるものは誰一人としていない。
彼女が選択すべき道は、聞かずとも既に決まっているはずだと、誰もが思っていた。
勿論、この『僕』でさえも……。


5ヶ月という月日が経った。
『僕』は臨月である春を待たずに、晩冬の寒空の下、この世に生を受けた。
それは主治医の予測通り『僕』の成長と共に側で息を繋いでいた悪塊が、彼女の命を蝕み始めていたからだった。
温かかった彼女の中から、まだ紫色にしか見えない表皮だった『僕』の躰は、執刀する主治医の手で直ちに取り出された。
案の定、産声はなかった。
ゴム手袋の不愉快な感触をまとうその手は『僕』の気道に無理矢理、細いゴム管を突っ込んで、幾度と無く抜き差しを繰り返しては、息をさせようとする。やっと、か細い声を挙げた『僕』は、誰の胸に抱かれることもなく、用意された温度と酸素の管理されたプラスチックケースの中にしばらくの間、入れられることになった。
それというのも、全ては悪塊が大きな栄養血管を創ったために血流の多くを奪われ、『僕』自身の成長が更に大幅に遅れていたから……らしい。
透明ケースの中で裸のまま寝かされた『僕』には、遙かに大げさに見える機器が取り付けられた。その姿は、想像以上に周囲の哀れみを誘うことになる。
「可哀想に……苦しかろうにねぇ……出来ることなら替わってあげたいくらいだよ」
彼女の見舞いに訪れた客は、ガラス越しに『僕』を見ると、口々にそう話しては涙ぐみつつも、数分の後には背を向け、帰っていった。

その度に『僕』は、心の奥で失笑した。

ある日、父親となった人から、どうやら『僕』は秋佳の家に『祥音(さがね)』という名で、籍を置いた事を告げられた。
彼女が、初めて僕の姿を確認したのは、それから3週間ほど経った日のことだった。
悪塊摘出した後、抗ガン剤で薬漬けにされた彼女の顔色は、生まれたばかりだった頃の、僕の皮膚色にどことなく近く、以前見せた、少女のような明るい笑顔は何処かに行ってしまっていた。それでも、僕がもそもそと動き出すのを見ると目尻が下がり、ほんの一瞬だけ、その名残を感じさせた。
彼女は、透明のケース越しにじっと僕を見つめた。
「祥音、ゴメンね。あなたにオッパイあげられなくて……」
彼女は、少しも張らなくなった自分の胸に手をあてがい、ぽつりとそう言った。
彼女の躰からは、もう母乳は出ない。抗ガン剤の影響だけではなく、母乳を創り上げるだけの機能を、悪塊ごと失ってしまったからだ。
それを彼女は、僕に侘びていたのだ。
ケースの脇に取り付けられた小さな窓から、彼女の指先が僕の頬に触れた。薄いプラスチック手袋越しだったけれど、他のどの手よりも優しくて、ほんのり暖かいのがわかった。
僕は反射的に口元を動かして、彼女の触れた辺りに口角を歪めてみる。
すると彼女の目から、ぽろぽろと、透明な滴が流れ始めたのが見えた。


春。
表には早咲きの桜が、新緑に萌始めた景色を彩るようになった。
その後順調に体重を増やし、少し前から透明のケースを卒業していた僕は、彼女よりも先に秋佳の家に帰ることになった。
彼女は笑顔で僕を見送った。けれど、無事に成長し退院していく僕に安堵しつつも、これまでのようには逢うことが出来なくなるという、裏腹な悲しみという感情があることも、彼女の浮かべた作り笑顔からは見て取れた。
ある日のこと。突然、僕にどうしても逢いたいのだと言って、弱った躰の無理を押し、彼女は秋佳の家に戻ってきた。
この世に生まれてから8ヶ月。僕の退院から半年ほどが経過し、少し遅い人見知りを始めた頃だった。そう。退院してからというもの、そうそう会うこともなかった彼女の顔は、僕の記憶に深く刻まれることなく経過し、当然、生活を共にしてはいない彼女に対して、母としての概念などあるはずもなく、母親の匂いを知らない僕にとっては『見知らぬ人』としての存在でしかなかった。
「祥音……おいで……」
彼女は僕の傍らによると、すっかりやつれ、細くなった手を差し出して、僕を抱き上げようとした。僕は反射的に身を固めた。じっと彼女の目を見ると、その距離が近くなるに連れ、じわじわと緊張していた表情を更に強張らせた。そして次第に瞳を潤ませると、ついには泣いてしまった。
そんな僕を見て、彼女はそっと僕を膝から降ろすと、その、折れてしまいそうな細い手を引いた。周りで見ていた数人が、音のないため息をついた。
「今は仕方がないさ。毎朝顔を合わせる私にでさえ、祥音は人見知りするんだから……」
毎晩遅く、彼女の元から帰ってくる、父と名乗るその人物は、気まずくなったその場の空気を取り繕うように、僕を見てそう言った。
さすがに、そんな反応は予測していなかったらしく、なかなか泣きやまない僕に彼女は困り果てた。
ふと庭に目線を移した彼女は、ちょうど庭に植えられたざくろの木を見た。その木は、まだ彼女が若くして秋佳の家に嫁いだ11年前、今は亡き大祖父という人物が、一族の繁栄を願って植樹したものらしい。
彼女はゆっくりと立ち上がり、脇に付き添われながら庭に下りると、たった一つ取り残されていた、その実を取り戻ってきた。
「ほうら、見てごらん?綺麗でしょう……」
彼女はそう言うと、既に大きく裂け始めていたざくろの外皮をパリンと二つに割り、僕の目の前に差し出した。
その反動で赤い粒が、数個、ぽろぽろと彼女の手中から零れ落ちる。
二つに割られた中には、ルビーのように赤く色づいた沢山の粒があった。そのあまりに鮮やかな赤に見とれて、目を丸くし、一瞬にして僕は泣くのを忘れている。
不思議なほど、穏やかな時の流れが、二人を包み込んでいた。
ペタンと床に座り込んだまま、僕は暫くその実を眺めると、彼女の顔を見上げて初めて笑った。
僕は思わず声を出した。
「んま……ま……」
ただの喃語だった。でも、それを聞いた時の彼女の顔は、とても安らかに笑っていたという。
病院へ戻ったその夜、彼女の容態は急変し、その日の内に遠いところへ一人、逝ってしまったらしい。

それが……僕にとって彼女と同じ時間を過ごした、最後の記憶となった。


そして今日、ちょうど彼女の13回忌を迎えた。
朝から座敷には祭壇が組まれ、昼近くになり、大勢の親戚や近所の人たちが入れ替わりやってくる。中には、今も彼女を懐かしみ、涙を流す者も僅かにはいたが、広間では仏の供養酒だといっては酒を飲み、よもや話に花を咲かせる者が殆どだった。
学生服に身を包んだ僕は、そんな沢山の来客に何度も掴まった。
「おや!お前は秋佳の跡取りじゃないか!えーと、何て名だったかな……」
顔さえろくに見たことのない、僕の叔父に当たるという男は、すっかり酔いが回り、案の定、僕に声をかけてきた。
「……祥音(さがね)、です」
鬱陶しい気持ちを抑えつつ、僕はポツリと短く答えた。
「さがねっていうんかぁ。ほら……ちょっと、こっちこい。もちいと顔を見せろや」
僕は面倒な気がしつつも、しょうがなく傍による。
「なぁ、久美によく似てーぇ、お前は男前になったなぁ!……まるで生き写しじゃないか、なぁ!」
そういい、僕の肩に手を組んでは、酒臭い息をかけてくる。
「いくつになった!あぁ、もう14か!学校は楽しいか?なぁ、クラブは何やってる?」
次々と大きな声で僕に話しかけてくる。僕は勢いに押されて、しどろもどろになりながら答えた。
結局、なかなか手を離してもらえず、僕はどうしていいのか分からず困っていた。周りも、さすがに僕に同情の視線を注いだ。
ちょうど、そのはす向かいに座り、出された料理をつまみながら話をしていた数人の大人達が、僕の顔をちらりと見ていたのに気がついた。
気がつかないふりをしつつも、ボソボソと何やら話している声が聞こえてくる。
「でも……本当によく似てきたわね、あの子。ご主人も、辛いでしょうに」
「久美さんも気の毒な人よ。もう少しだけ、時期がずれていたらねぇ」
「ホント、これも運命なのかしらねぇ……」
別に僕のことを、今更どうこう言っているわけではないことくらい、分かってはいる。けれど、間接的には気持ちの何処かに、そう言う偽らざる事実がある、という事なのだろう。どことなく居心地の良くない雰囲気に、僕は少しだけ目を伏せた。
どうやら僕を捕まえたまま離さないでいる、ただの酔っぱらいにも、耳に届いてくるその会話の真意は見抜けるらしい。
「おいっ!そこでよからん話してるヤツ!まかり間違ったってそんな話、こいつの前でするモンじゃぁないぞ!」
酒の勢いに任せて、彼はお構いなしに言い放った。後には潮が引くように、辺りをしんと静まり返させてしまった。
「い、いやですよ、力さん。そう言う意味じゃぁありませんよ……」
指摘をされ一瞬、気まずい顔をしたが、慌ててきっぱりとそう否定した。
「や〜かましい!言い訳するなぁっ!ゆうちゃーいかんこと、お前らわからんのか!はよ、こいつにあやまらんかいっ!」
「やだ、……祥音ちゃん?違うのよ、勘違いしないでよ。おばちゃん達ね、祥音ちゃんのこと悪くなんて、これっぽっちも言って無いからね……」
否応なく、全員の視線は僕に注がれる。
「……いいよ……別に、気になんか……して無い……」
そう言いつつも、僕は、ますます顔が上げられなくなる。
ただの酔っぱらいは、顔を覗き込むようにして僕をみた。
「アホ。これの何処が気にしてないちゅうんじゃ!」
「もう、よさんか!余計に祥音、追いつめちょるじゃろうが」
知らない誰かがそう言い、二人の言い争いの仲裁に入った。
僕はその状況が堪らなくなり、肩にしっかり組まれた手をどかすと、その場から逃げるように駆け出した。
「祥音ちゃん!」


僕は、誰もいない、色の寂しくなった晩秋の庭へと出た。

── 鬱陶しい ──

ただ……感じたのは、それだけだった。
今年もまた、この庭の隅にある木には、沢山のざくろが実を付けた。
殆ど手入れのされないこの木は、今年の実が落ちた後、切られることになっていた。本来ざくろは結実が難しいらしく、根を大きく張った沢山の実を付けるざくろの木は、勢いが良すぎてその分、周りの木の生命力を弱めてしまうらしい。僕が七つになるまでの間、ずっと身の回りの世話をしてくれた秋佳の祖母が、生前そう話していたのを思い出した。
僕は引き寄せられるように、その木の根本へと身を寄せた。
どういうワケか、僕は生まれる前からの、殆どの記憶を持っていた。
自分の父親であるはずの人物でさえ、僕を誕生させることに反対した。事情を考慮すれば、それは仕方のない事。だから、別にそう思われたところで、誰かを責めるつもりも、僕にはない。ただ、たった一年足らずで彼女がいなくなった後、沢山の人達が彼女の幻影を重ねて、僕の成長を見届けている。そこには、過去に抱いた知られざる心理を、まるで取り繕うようにして皆、僕に接しているのだと思うと『鬱陶しい』以外に、どうにも言葉は見あたらなかった。
どことなくやるせない気持ちが募り、それは一気に弾けそうになる。

── パリッ! ──

〈……えっ!〉
頭上で聞こえた音に驚く。
見上げると、ちょうど真上にあるざくろの実が、間合いを計るかのように熟し、外皮を割った。
「なんだ、お前が裂けた音か。……タイミング良すぎるよ」
苦笑いをする。僕は立ち上がると、その実を手に取り、そっと枝から外した。
僕は、ざくろの実が嫌いだった。食べてみたところで、大した甘みもなく、むしろ酸味が強くて、僅かな渋みさえ感じる。
はじめて彼女に見せられたあの時、僕はこの実の赤に目を奪われた。
確かに一つ一つの小さな実は、宝石にも似て綺麗だと、今でも思ってはいる。けれど、果肉を噛み砕いた後に零れる果汁など、違う見方をすれば、余りにも真っ赤で毒々しく、いかにも人の血の色に見える。そう、それは間違いなく、ただ暖かく安らかだった彼女の中から、突然取り出された時に見た、あの色。
だから。
僕は、この赤い実が大嫌い……だった。

ふと、僕は木に訊ねた。
「どうして、お前はそんなに赤い実を生むの?こんなに渋みを持った赤い実を……」
木は答えない。
「もっと甘い実を付ければ良かったのにね……そしたら、他の木みたいに大事にしてもらえたのに」
木は……それでも答えない。
……いや。木はポツリと言った。

── 鬱陶しいよ…… ──

ざくろの木は、僕にそう言ったような気がした。
そうか……。
〈きっとお前は、僕と同じ、なんだね……〉


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